式内社 川内多々奴比神社
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概 要
社 号 式内社 川内多々奴比神社二座
読み:古 カフチタヽヌヒ、現 かわうちたたぬひ
所在地 兵庫県篠山市下板井74
旧地名 丹波国多紀郡
御祭神 天照皇大御神 建速素盞嗚命
※本来は楯縫氏の祖神を祀る
例祭日 10月9日
社格等
古代社格制度『延喜式神名帳』
山陰道:560座 大37座(その内 月次新嘗1座)・小523座
丹波国(タンバ):71座(大5座・小66座)
多紀郡(タキ):9座(大2座・小7座)
式内社
近代社格制度 旧郷社
創建 本殿様式
境内摂社(祭神)
一口メモ
丹波大山駅(兵庫)からだと、 右折して国道176号線を北へ直進する。 400 mで丹南橋(交差点)を右折して 県道97号線 に入り、2.2 kmで宮田(交差点) を左折して、県道140号線 に入る。 500 mで斜め右に折れる。500 mで大きな神社の看板があるので、舞鶴若狭自動車道をくぐり斜め左に折れる。 長い社名だが、本来は楯縫氏の祖神を祀るとあり、多々奴比は楯縫のことだとわかる。
歴史・由緒等
崇神天皇の御代四道将軍丹波道主命、この地に野陣を張り賊徒征伐に苦慮されたとき、白髪の翁が現れ玉剣を授け、その加護により平定することができたので朝廷に言上し、勅命によりここに宮地を営んだのが当社の縁起であります。 名称の川内は当地を川内郷といい、神楯を奉仕する斎部の楯縫氏が祖神を祀ったので川内多多奴比神社といいます。 天智天皇二年九月九日勅命により祭祀を執り行ったのが祭礼の初めで、天武天皇白鳳元年9月9日国司により造営され、氏子中二十社の総社で平生は一宮と呼んでいる。
-「社頭掲示板」-
御由緒
崇神天皇の御代、四道将軍丹波道主命を丹波に遺されし時、蒙昧の徒は皇軍に従わず、一勝一敗。 容易に平定すべくもあらず仍りて此地に野陣を張られ天神地祇に祈請せられしに東山 の麓に小川ありて其の小川の淵となる所より光輝赫灼として陣中に照り通り且震動して止まざること數日命大いに訝り怪みて是れ神祇の御守護の顯に現れ給ふ事ならんと 思召し。
彼の水邊に至り給へば白髪の老翁身には白衣を着け左手に白玉を右手に剱を捧 げながら水上に漂へり命の曰く是れ人に非ず神ならんと敬ひつつ近寄り給へば、彼の老 翁左右の玉剱を命に授け白玉は是れなん天神国神として齋き奉れ剱は賊徒を亡す霊剱なりと誨へ給ひて御姿は見えず光輝も震動も次第に止みぬ。
命大いに喜び懇に天神国神 を祭りて其の恩頼に報ひ奉り給へり夫より賊徒悉く平ぎて国中平安となれり爰に於て 命この由を朝廷に言上して勅命を受け宮地を相して白玉を天照皇大神神霊剱を建速素 盞嗚命と稱し奉りて此地に勸請せられたり斯くて彼の玉剱は川の内に漂ひし神の分霊 なるにより社の名を川内多々奴比神社と稱して敬祭し給へり。
是れ即ち當社鎮座の起因 なり因って郷民社地の名を川内原と呼び光輝水上より東南の山々迄輝き渡りたればと て東の山を御光嶺南の山を南光山と謂ひ氏子を川内の郷と謂ふ。
天智天皇二年九月九日、勅命を以て、祭事を行はる蓋し祭禮の始なり。
天武天皇白鳳元年九 月九日、国司より造営せられ醍醐天皇延喜の制二座とも式内社に列せられ、神名帳に丹波国多紀郡川内多々奴比神社二座とあるに相當し。同帳四時祭の部に国司祈年神云々又座 別に絲二両綿二両右国司の長官以下准列散齋三日致齋一日共に會祭し、其幣皆用正税と あるは昔時祈年の国幣に預り国司親しく祭事を行はれたることを證すべし。
正暦元年三 月摂津守源頼光丹波賊徒征討の際太刀一口を奉獻せられたることは由緒により知るこ とを得、元弘年中兵燹に罹り霊代なる神玉神剱を紛失したることは頗る遺憾とする所 なり。
正平十三年八月再建新に神躰を造りて勸請せられ笈西勘太夫供奉明山權太夫出向 へたるにより現在板井村に笈西及明山姓のもの多し萬治元年社殿及び古文書寶物等全 部焼失に及び僅に源頼光奉獻の太刀一口出でたり。
同三年四月社殿を再建し明治六年十 月村社に列し大正九年五月郷社に昇格す。 全国神社祭祀祭礼総合調査 神社本庁 平成7年
境内・社叢
鳥居から境内までは奥行きがたっぷりある 源頼光奉獻の太刀一口ゆかりの木
参道入口に鐘楼だったような建物 神仏分離令で撤去されたのだろうか。 手水舎
狛犬
拝殿 本殿
境内社
地名・地誌
地 図
交通アクセス・周辺情報
参 考
「延喜式の調査」さん、他
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